日本アサヒ機工ものがたり

〜その1〜

日本アサヒ機工株式会社は2024年で100周年を迎えました。

100年のあゆみはお客様の暖かいご支援の賜物と深く感謝いたしております。
温故知新、これからの更なる発展の一助と致したく100年の歴史を4~5回に分けて振返ってみたいと思います。第1回目として創業当時のお話をします。

創業は大正13年(1924年)7月でした。
背景となる当時の世相を歴史年表から探ってみます。
大正12年に関東大震災があり大きな被害がありましたが、大震災からの復興と新しいものへの興味が湧きあがってきた時代でもありました。
世相的には震災を契機に洋風化が進みました。例えば同潤会の近代的アパート、円タクの運行、ダンスの流行、ラジオの本放送の開始、東京六大学リーグ戦開始、山手線環状運転実施、ヤキトリ・あんみつの出現などなどです。
白米1升(1.5 kg)が50~60銭、カレーライス1杯が10銭でした。着るものについても活動に便利な洋服の大幅な普及が進みました。
すでに軍人・官吏は洋服でしたが、この頃より一般庶民も洋服を着るようになりクリーニングへの需要が増大してまいりました。

このような中、当社は創業いたしました。

当社創業当事の紹介記事とカタログ2葉を紹介します。出典は新聞記事と思われます。詳細な年月は不明ですが創立間もない時期のものと思われ、当時の雰囲気を伝える貴重な資料です。

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり
これらの記述から、清新の気溢れる若い力が輸入機械の巾を利かしている時代に新技術による国産化を成遂げ、多くのアサヒ式製品群を生み出したことがうかがえます。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

ドライクリーニング機器と水洗機の両方を手がけていますがドライ機が主のようでした。
ドライ関係では現代のものとはかなり異なる形状の機械、スチーム式仕上機やベンジン回収・再利用する蒸留器まであり、当時としては最新式のものを取揃えていました。
水洗機器では洗濯-脱水-乾燥が別々の機械で行う方式でした。

製造は1台1台の手作りで工場は文字通りの町工場でした。 お得意様はクリーニング店が主で国内は勿論、遠く海外にも販路を拡げていました。

[特異な機械の説明]
【ダスターホイル】溶剤につけ込む前に衣類を本機に入れ、回転してほこり、塵、砂など鉱物質の付着物を除去するのに使用されました。

〜その2〜

昭和初期から終戦までのことを振り返ります。

昭和7年本店を浜松町3-3(現在地)に移し、昭和9年「個人会社アサヒ商會」から「合名会社アサヒ商會」と会社組織とし、昭和10年代の前半は第一期発展の時代でした。 昭和18年には「合名会社アサヒ総本店製作所」と改名し、組織の基礎固め、整備・拡大を行いました。迅速かつ誠意ある業務遂行がお客様に好評でした。 その後、戦争が激しくなって物資統制が厳しくなりましたが社業は発展を続けました。

封筒記載の製造・営業品目はドライクリーニングを主に洗濯機械、分離機、各種プレス機、糊付機、ベンジン蒸留機、石鹸類など関連機械・器具・洗剤とクリーニング関係全般に及びました。

「西洋洗濯」という言葉が登場しますが、幕末から明治初期にかけて登場した言葉です。 洗い方は洋服、軍服、西洋風衣服を桶の中で水またはぬるま湯でソーダや石鹸を用いて洗い、被洗物をたたきつけたり、洗棒でたたいたりしました。必要により糊づけし火のしで仕上げました。 その後ドライクリーニングが登場し、これらも含め西洋洗濯と云いました。

更には洗濯機械のみならず、時代の趨勢でもある国産化著しい機械工業や化学工業向けの遠心分離器の開発・製造も行いかなりの台数を納入しました。

昭和18年には上述の改名と共に工場、陳列所を浜松町に移転・建設し、事業の充実を図りました。

技術の蓄積、カタログの整備により販路も日本全国は勿論海外にも及び、国内外に当社の評判を高めました。 しかし、営業活動は、交通機関や宿泊設備が現在のように便利ではなかったため、一旦営業に出るとかなりの長期間にわたったようです。

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合名会社社名入りの封筒

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感謝状

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

感謝状

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

東京洗染材料商組合からの 感謝状

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

カタログ(冊子)の表紙

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり 日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

カタログ(冊子)の内容の一部

封筒記載の製造・営業品目はドライクリーニングを主に洗濯機械、分離機、各種プレス機、糊付機、ベンジン蒸留機、石鹸類など関連機械・器具・洗剤とクリーニング関係全般に及びました。

「西洋洗濯」という言葉が登場しますが幕末から明治初期にかけて登場した言葉です。 洗い方は洋服、軍服、西洋風衣服を桶の中で水またはぬるま湯でソーダや石鹸を用いて洗い、被洗物をたたきつけたり、洗棒でたたいたりしました。必要により糊づけし火のしで仕上げました。 その後ドライクリーニングが登場し、これらも含め西洋洗濯と云いました。

更には洗濯機械のみならず、時代の趨勢でもある国産化著しい機械工業や化学工業向けの遠心分離器の開発・製造も行いかなりのか台数を納入しました。

昭和18年には改名と共に工場、陳列所を浜松町に移転・建設し事業の充実を図りました。

技術の蓄積、カタログの整備により販路も日本全国は勿論海外に納品し、内外に当社の評判を高めました。 しかし営業活動は交通機関や宿泊設備が現在のように便利でなく、一旦営業に出るとかなりの長期間にわたったようです。

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

バンコクとの貿易関係書類入れと営業に用いたトランクと宿泊先のシール

やがて統制の時代になり価格上限値の制定、原材料不足や企業許可令やなどにより制約条件が増えてゆきました。
原材料、資機材の調達も重要な仕事でした。 お得意先は戦時下を反映して軍関係や軍需産業の工場が増えてきました。

昭和17年には国家総動員法に基づく企業許可令による報告が必要でした。 当社の石鹸製造に関する報告書と東京府知事の受領書が残されていますのでその画像を示します。

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

昭和19年の手帳が残されており、19年から20年にかけての戦時下の営業活動状況や世相の一端をうかがい知ることが出来ます。
次回はこの手帳からいくつかの頁を紹介いたします。

〜その3〜

「その2」に引続き終戦前後の国全体が苦難に満ちていた時代を振りかえります。

昭和19年の手帳が残されており19年から20年の事業活動の一端を知ることが出来ます。その中からいくつか拾ってみます。販売先は軍関係あるいは軍需関連会社が圧倒的でした。洗濯機の仕様と台数は人員数と関連するので軍秘でした。

国府台陸軍病院(千葉県市川市) 受注できても資材や部品の調達が一段と大変でした。 クズ鉄3トンを宮城県まで買付けに行きました。

東北本線新田駅から宮城県登米郡米川村(現登米市東和町)にあった鉄工場へ行きました。 やがて終戦となりますが、戦後復興に関連して洗濯機関係の需要は旺盛で当社もいち早く戦災にあった工場を復興しました。 しかし激しいインフレのため物価統制令が出され、商工省から統制価格の認可を得る必要があり、当社の製品も適用を受けました。

終戦後しばらくの間は戦争の傷跡が至る所に残っており、特に戦災孤児の救済は社会的な課題でした。 この問題解決に献身的に尽力していたポーランド出身のゼノ神父の要望で神父らが開設した長崎県の戦災孤児収容施設に洗濯設備を寄贈しました(昭和23年頃)。

ゼノ神父はその他にアリの町での奉仕、北海道の冷害や新潟地震などへの色々な救済活動に活躍し、福祉活動の原点のような人物でした。

ゼノ神父と手回し式木製洗濯機・手回し式脱水機と初代社長菊島辰造 戦災孤児収容施設にまだ電気が引かれていなかったため、手回し式を要望されました。 (現本社位置にあった工場の前で) その後も神父はたびたび当社を訪れました。

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川棚海軍工廠(長崎県)

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中島飛行機宇都宮製作所(栃木県)

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国府台陸軍病院(千葉県市川市)
受注できても資材や部品の調達が一段と大変でした。 クズ鉄3トンを宮城県まで買付けに行きました。。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり
東北本線新田駅から宮城県登米郡米川村(現登米市東和町)にあった鉄工場へ行きました。
やがて終戦となりますが、戦後復興に関連して洗濯機関係の需要は旺盛で当社もいち早く戦災にあった工場を復興しました。 しかし激しいインフレのため物価統制令が出され、商工省から統制価格の認可を得る必要があり、当社の製品も適用を受けました。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

ガソリン清浄装置の価格

終戦後しばらくの間は戦争の傷跡が至る所に残っており、特に戦災孤児の救済は社会的な課題でした。
この問題解決に献身的に尽力していたポーランド出身のゼノ神父の要望で神父らが開設した長崎県の戦災孤児収容施設に洗濯設備を寄贈しました(昭和23年頃)。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

遠心分離機などの価格

ゼノ神父はその他にアリの町での奉仕、北海道の冷害や新潟地震などへの色々な救済活動に活躍し、福祉活動の原点のような人物でした。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

現本社位置にあった工場の前で

ゼノ神父と手回し式木製洗濯機・手回し式脱水機と初代社長菊島辰造
戦災孤児収容施設にまだ電気が引かれていなかったため、手回し式を要望されました。 (現本社位置にあった工場の前で) その後も神父はたびたび当社を訪れました。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

ゼノ神父と二代目社長菊島千秋

〜その4〜

戦後の混乱から立ち上って次なる発展を目指した頃を振り返ります。

昭和20年代後半になると、世の中も落着きを取戻しつつあり、社会・産業も復興に向かいました。 洗濯設備の一般ユーザーからの需要も復活し始めました。

昭和24~26年に合名会社から株式会社とし社名も「日本アサヒ總本店製作所」に変更しました。
東京の本社工場を拡充し製造能力を増強し,新しい工作機械なども導入しました。
製造販売品は自動電気操作洗濯機械,平物仕上機,電熱式ボイラー,重化学工業向け遠心分離機など多岐にわたり、ユーザーもランドリー関係だけでなく肥料製造など重化学工業や各種機械部品メーカ-まで広がりました。
主力のランドリー関係では駐留軍関係に出荷するとともに海外にも目を向け、インドをはじめ東南アジア、南アメリカ諸国へ輸出するなど外貨獲得に貢献しました。
新聞にも広告を掲載しました。
精力的な販売面に加えて洗濯機・遠心分離機の技術面での改良にも努力し,その成果のいくつかは実用新案登録に結実しました。(例えば 第0395907号,第0588795号) 昭和33年には社名を発展的に現社名の「日本アサヒ機工株式会社」に改名しました。

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合名会社時代のカタログ表紙

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駐留軍向け出荷

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駐留軍向出荷の感謝状

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洗濯設備のインド向け輸出

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実用新案登録証2種

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英文カタログ表紙

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英文カタログ内容の一部

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カタログ内容の一部〜遠心分離機と横型洗濯機

〜その1〜

日本アサヒ機工株式会社は2024年で100周年を迎えました。

100年のあゆみはお客様の暖かいご支援の賜物と深く感謝いたしております。
温故知新、これからの更なる発展の一助と致したく100年の歴史を4~5回に分けて振返ってみたいと思います。第1回目として創業当時のお話をします。

創業は大正13年(1924年)7月でした。
背景となる当時の世相を歴史年表から探ってみます。
大正12年に関東大震災があり大きな被害がありましたが、大震災からの復興と新しいものへの興味が湧きあがってきた時代でもありました。
世相的には震災を契機に洋風化が進みました。例えば同潤会の近代的アパート、円タクの運行、ダンスの流行、ラジオの本放送の開始、東京六大学リーグ戦開始、山手線環状運転実施、ヤキトリ・あんみつの出現などなどです。
白米1升(1.5 kg)が50~60銭、カレーライス1杯が10銭でした。着るものについても活動に便利な洋服の大幅な普及が進みました。
すでに軍人・官吏は洋服でしたが、この頃より一般庶民も洋服を着るようになりクリーニングへの需要が増大してまいりました。

このような中、当社は創業いたしました。
当社創業当事の紹介記事とカタログ2葉を紹介します。出典は新聞記事と思われます。詳細な年月は不明ですが創立間もない時期のものと思われ、当時の雰囲気を伝える貴重な資料です。

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり
これらの記述から、清新の気溢れる若い力が輸入機械の巾を利かしている時代に新技術による国産化を成遂げ、多くのアサヒ式製品群を生み出したことがうかがえます。
日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

ドライクリーニング機器と水洗機の両方を手がけていますがドライ機が主のようでした。
ドライ関係では現代のものとはかなり異なる形状の機械、スチーム式仕上機やベンジン回収・再利用する蒸留器まであり、当時としては最新式のものを取揃えていました。
水洗機器では洗濯-脱水-乾燥が別々の機械で行う方式でした。

製造は1台1台の手作りで工場は文字通りの町工場でした。 お得意様はクリーニング店が主で国内は勿論、遠く海外にも販路を拡げていました。

[特異な機械の説明]
【ダスターホイル】溶剤につけ込む前に衣類を本機に入れ、回転してほこり、塵、砂など鉱物質の付着物を除去するのに使用されました。

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